目立たなかった人がふとしたことで脚光を浴び、運命が変わってしまうことがある。字も同じだ(え?)。
「ら致」「だ捕」「ふ頭」「操だ」など、当用漢字にない字をムリヤリひらがなで表記する「まぜ書き」。新聞などではこう書く規則になっているようで、言葉に敏感な人々の間では、毛虫のように嫌われているようだ。 僕も決して好きではないが、最近はむしろ、苦々しく思う前に笑っちまうことも多い。というのも、去年から娘が小学校に上がって漢字を習い始め、宿題の日記やプリントなどで「天き」「音ぷ」「ご先ぞさま」などという表記をやたら見かけて腰砕けしているからだ。あ、先述の「毛虫」も「毛」は二年生で習うから、一年ボーズは「け虫」と書く。ちょっとカワイイ。 そう言えば、今どきの小学校では、まだ習っていない漢字を授業や宿題で使ってはいけないそうだ。生徒の名前についても例外ではないらしい。娘の友だちに「サキちゃん」という子がいて、漢字では「早紀」と書くようだが、学校に貼ってある絵なんかには「□□□ 早き」と署名してある。これはちょっとかわいそう…というか、かえって読めないんですけど-_-; だが、学校の事情にお構いなく、早々と漢字を覚えてしまう子も少なくない。娘のクラスにも、小一にして中学校の漢字にまで手を出しつつある漢字マニアがいるが、何とこの子は、「習った漢字」と「まだ習ってない漢字」の区別まで覚えているらしい。家内の話では、その子が以前うちに遊びに来た時、『小学一年生』の付録の漢字ポスターを見て、「習ってない字当てゲーム」をやっていたそうだ。いやはや子供の脳ってヤツは。 子供の話はつい長くなる。この辺で本題に入ろう。 ここ数年、ずっと気になっていたこの手の表記の一つが、「無塩せきハム」である。ほら最近、健康に配慮して食品添加物不使用、という触れ込みのハムが結構出回ってますよね。うちもそういうハムを買うことが多いんだが、そのパッケージに商品名として書いてあるのがこの言葉だ。 「け虫」や「ふ頭」はカワイイと思っても、当てるべき漢字がわからないと途端に気になる。辞書で調べようかと思ったが、多分専門用語だし、しかも最近の無添加ブームによって一般の目に触れ始めた言葉だから、おそらく載っていないだろうな、という予測はあった。一応引いてみたら、「塩せき」にあてはまるのは「塩析」という言葉だけ。 えんせき【塩析】(名)スル ある物質の水溶液に塩類を大量に加えてその物質(溶質)を析出させること。タンパク質やその他の親水コロイドの溶液からコロイドを析出させるのに利用される。石鹸の分離の過程もこの例。 (三省堂『スーパー大辞林』電子辞書版) はあ。そうですか。だが、ハムづくりに「塩類を大量に加える」のはわかるが、肉類の主要成分である「タンパク質」をわざわざ「析出させて分離させている」とは考えにくい。第一、「析(セキ)」は字も読みも中学校あたりで教えているはず。そんな字ををわざわざ平仮名で書くはずがない。没。 そこでいつものネット検索。ところが、やってみて困った。「無塩せき」のキーワードで引っかかってくるページはいくつもあるが、そこに載っているのは「無塩せき」という表記だけであって、漢字でどう書くかは載っていない。 ならば意味から推測するしかないか。そう言えばそもそも「無塩せき」ってどういう意味だ。というわけで、ある無塩せきハム関連のホームページを読んでみる。 塩せき(原料肉を漬け込む)工程で、発色剤(亜硝酸ナトリウム・硝酸カリウム)・着色料を使用していないものを“無塩せき”といいます。 はー、なるほど。「原料肉を漬け込む」のが「塩せき」ならば、この「せき」はもしかして「漬」じゃないのか。…ということで、改めて「無塩漬」で検索したら、出た出た。 ちなみに後で思いついて、ひらがなだけの「むえんせき」で検索してみたら、「無塩漬(むえんせき)」と表記してある親切なサイトも多数あるとわかった。いろいろ試してみるもんだ。ともあれ、「無塩漬」が正解であることが、ここにめでたく確認されました…… と、残念ながらそうはいかない。「漬」という字にはもともと、「セキ」という読みがないようなのだ。 漬 【音】シ(漢)、ジ(呉) 【訓】つ・ける、つ・かる 【意】つ・ける、つ・かる、ひたす [名付け]ひた [意味]{動}ひたす。つける(つく)。いくつも積み重ねて、汁の中にひたす。液体の中に長くつけこんで、味や色をしみこませる。【類】→浸。「塩漬(エンシ)(塩づけ)」。 (学研『漢字源』電子辞書版) 例にも挙げてあるように、本来の読み方からすれば「エンセキ」ではなく「エンシ」となるようだ。 ドクダンジョウ、という言葉をたまに聞く。漢字では「独壇場」と書くことが多いが、「壇(つちへん)」ではなく「擅(てへん)」と書くのが本来の表記で、しかも元々は「ドクセンジョウ」と読んだ。だが現在はその読みの方が通じにくい。昔、職場の会話の中で試しに「ドクセンジョウ」を使ってみて、年かさのスタッフから「ドクダンジョウ、ね」と"訂正"され、この言葉を使うのをあきらめたことがある。 チョウバン、という部品の名前もよく聞く。漢字で書くと蝶番。チョウツガイのことだ。これも結構前からチョウバンと呼び慣わされているようだ。不動産の広告の仕事で建物の取材をしたことが何度かあるが、建築会社の人(つまり専門家)が蝶番の話をする時、「チョウツガイ」と呼ぶことは遂になかったことを思い出す。 つまり、パッと見で読みやすい方がどうしても優勢になるわけだ。「漬」の字も「漬物」ぐらいでしか目にすることはなく、たいがいの人は音読みのことなど考えもしないだろう。たとえば、ハム工場の現場などで新人が「塩漬って何と読むんですか?」と聞く。聞かれた先輩はいちいち調べるほどヒマじゃないので、「責」がついてるから「セキ」だろう、で済ます。聞いた後輩は、そのまた後輩に同じように教え、いつしか「エンセキ」が定着していく、という状況が想像される。 それでも今までは、一般家庭に関係のない専門領域の話で済んでいたが、最近の無添加ばやりのおかげで、専門用語が一気に世間の目に触れることとなり、もともとメジャーではなかった「シ」を抑えて、「セキ」が定着に一歩先んじたわけだ。まったく、言葉の世界は油断ならない。 ということを書こうと思った矢先に、新聞に広告が出た。ハムではなく、梅酒の広告だ。 シンセキって なに? 「ウメッシュ」も「さらりとした梅酒」も、梅の実をまるごと漬け込み、 約1年もの時間をかけてじっくり仕上げる “浸漬(シンセキ)酒”。 だから、素材本来のおいしさがしっかり生きています。 (以下略) (チョーヤ梅酒 新聞広告より) あらら、これで二歩先んじられてしまった。本家「シ」の運命やいかに。
by uedadaj
| 2007-03-29 17:15
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