犬は吠えるがキャラバンは進む

ずっと前に「?」と思ったことが、何かの拍子にいきなりわかる、という経験が時々ある。特に最近はネットのおかげで、そういうことが増えた気がする。

最近、19年ぶりだかでアルバムを出して話題になった小沢健二氏。彼が90年代にソロデビューした時のアルバムのタイトルが『犬は吠えるがキャラバンは進む』というものだった。

アルバム自体には関心がなかったが、タイトルは「なんだそれ?」と妙に気になった。当時はググるという方法が存在せず、物事を知るためのハードルは今よりもかなり高い。いろいろ努力すれば…たとえばそのCDを買って付属の刷り物を読むとか、当時の音楽雑誌のオザケン特集を読むとかすれば…分かったのかも知れないが、何しろアルバムに関心がなかったので(笑)、そのままになっていた。

で、二十数年後。それがトルコのことわざであると不意に判明した。




きっかけは、数年前からトルコ語に対する興味がじわじわくすぶり始めたことだ。ずっと昔に一度旅行しただけの国だが、実は中央アジア言語の多くがトルコ語の親戚らしいと知り、単語や文法を知っていると結構面白いかも…という気になって、大学書林の『トルコ語辞典 ポケット版』を入手した。定価だとちょっとやそっとの興味では手が出ないが、神保町で結構お安くなっていたので^^;

新しいおもちゃを手に入れたワクワク感で、トルコ語由来の「kiosk」や「yoğurt」を引いてみたり、巻末のミニ日→土辞典で思いつく単語を調べたりしているうち、このページに行き着いたわけである。

İt ürür, kervan yürür.
(イヌはほえるキャラバンは進む)雑音で事態の進行をおしとどめることはできない.
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「I」の大文字の上に点がついた「İ」の字が懐かしい。日本人にはピンと来ない表現なので、意味を簡潔に説明してあるのも良かった。分かってみると、なかなか味のあるタイトルだ。奇をてらったように見えて、実はミュージシャンの矜持みたいなものを多少の自己韜晦を交えつつ表現したのかね?などと、二十数年目にして思ったりした。…あれ、そう言えば今回の発見は、ネットのおかげでも何でもないですね。まあそれはともかく。

同時に興味を覚えたのは、ürür(動詞「ほえる」の中立形)とyürür(動詞「進む」の中立形)の押韻関係だ。

なんとなくだが僕は、トルコ語では口承文学や詩などの韻文が発達しているようなイメージを持っており、ことわざでも「韻優先」の感覚があるのではないかと、このフレーズを見て改めて思った。「ほえる」と「進む」がこれだけ近い音なら(グーグル翻訳の発音機能で聞き比べてみたが、僕の耳ではürürとyürürの違いが分からない)、語呂合わせで「なにかうまいことを言ってみたい」という欲求が働くのは分かる。

「文の意味が分かりにくくても、いい韻が踏めればことわざとして成立する」トルコ語にはそんな文化があるんじゃないかと感じられた。にわかにトルコのことわざに興味が湧き、ツイッターでトルコ語のことわざbotをフォローしてみた。すぐに、僕の関心をワシづかみにする例が見つかった。

Senin canın can da benimki patlıcan mı?
(君の命は命で、僕のは茄子か?)

ちょーっと、わけが分かんないですね。頼りのトルコ語辞典にも、これは見当たらなかった。しばらく考えて、他人の命に配慮しないヤツを非難する言葉かと見当をつけた。

日本語だとやたらシュールなフレーズだが、トルコ語なら言いたいことが分かる。「茄子」=patlıcan(パトルジャン)が「命」=can(ジャン)の音を含んでおり、意味はまったく別モノでも音韻上でつながりとリズムが生まれ、面白い表現になっているはずなのだ、トルコ語では。

なんだろうな、たとえば
「コップ」が「スコップ」になり、
「マムシ」が「おジャマ虫」になり、
「医者」が「犯罪者」になる感じか。

などと、自国語の例を考えるのがもどかしい。意味と音が同時に理解できないと、韻文の味わいは半減してしまう。これが翻訳の壁となり、外国になかなか知られない文学作品などが、世界には膨大にあるんだろうな。ため息が出る。

その一方で、いにしえのことわざ作者の苦労や楽しみが偲ばれて、ちょっと親しみなど感じてしまうのだ。


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by uedadaj | 2017-03-08 12:15 | | Comments(0)


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