【2535】「假裝不關心薪水」的背後

(台湾《2535雜誌》2010年3月号掲載--掲載文は繁体中文)



<テーマ:給料>
「給料なんてどうでもいいフリ」のわけ

今回のテーマが「給料」と言われて、正直困った。僕が今フリーランスで、給料というものをもらっていないこともあるが、もっと根本的な理由は、人と給料の話などしたことがないのだ。人の給料を尋ねたこともないし、今度給料がいくら上がって嬉しい、とかいう話もしたことがない。僕に限らず日本では、人と収入に関する話をするのは憚られるのだ。

別にみんなカネの話に興味がないわけではない。たとえば株をやっている人が自分の株が上がった下がったと人に話しているのもよく聞く。競馬やパチンコ好きの人は「いやあ、昨日大負け(大勝ち)しちゃって...」で話が始まることも少なくない。給料の話にしても、雑誌などで大企業の給料ランキングとか、各社各業界の年収比較なんていう企画は珍しくない。でも、自分や相手の収入については、みんなタブーのように触れたがらない。なぜだろう。...推測に過ぎないが、自分と人との「差」がわかってしまうことに抵抗があるんじゃないかと思う。

株やパチンコ、競馬などの話は、自分の損得に関わることではあっても、それを左右する要素は自分の外にある。「運」というやつだ。だが、給料となると自らが働いた結果であり、そこから能力の差、努力の差、世渡りの差などなどが透視できてしまうような気がして、あまり直視はしたくないのかも知れない。

そして、意識しているかどうかはともかく、そのタブー感覚こそが、前世紀における日本の発展を後押ししてきた一要素と言えなくもない。上司や同僚の収入について敢えて情報を遮断し、「そんな問題は存在しない」とすることで、視線を心置きなく、会社の外部にある「共通の敵」に向けることができる。

もう一つ、「社会全体が緩やかに向上している」という共通認識があったことも無視できない。一時代前は、普通に働いていれば給料が年々上がっていくという状況を皆が享受していた。自分も相手もこの先もっとマシになるから、今ちょっとくらいライバルに水をあけられても、暮らしがダメになるわけじゃない、そんな基本的な安心感が、前世紀にはあったと思う。その安心感があったから、日本は「余計なこと」を考えずに目の前の仕事や消費に専念でき、企業や社会の一体感を養うこともできた。

だがそんな環境も、20世紀終わりとつい昨年の、2度の経済危機を通して消えようとしている。人々の気持ちの基礎にあった「なんとなく斜め上に向かって緩やかに傾斜している」感覚は、今はない。そして、有名な「格差社会」という考え方が、仲間の中に敵を見出す契機になっている。

世界的に見れば何も珍しい異常な状態ではないかもしれない。むしろ、日本はやっと普通の国に近づきつつあるという言い方もできるかも知れないが、個人個人がその状況に追いつくのは時間がかかるだろう。日本人の横並びメンタリティはそう簡単には変わらないし、給料が下がろうとも、以前にも増して会社の業績のために力を尽くさねばならない。それに、たとえば住宅ローンや生命保険など、「給料が年々上がり続ける」前提で続けられている出費も多いからだ。

(中文版はこちら)
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by uedadaj | 2010-04-06 14:14 | 散歩


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