【2535】三鷹市街道的敞篷車和日本人的虛構力(日文版)

(台湾《2535雜誌》2009年8月号掲載--掲載文は繁体中文)



<テーマ:クルマ>
三鷹のオープンカーと日本人の虚構力


三鷹市のとある通りを、自転車で家へと走っていた。

前方に、高級車のオープンカーが停まっている。信号待ちの最後尾らしい。近づくにつれ、カーステレオの低音が大音量でズンズン響いてきた。運転しているのは、サーファーみたいな髪型をした四十代くらいの男性。Tシャツの袖を肩までまくり上げて、左手でハンドルを掴み、右手をドアの上に乗せてリズムを取っている。

僕が横を通り抜けて程なく、信号が青になって車列が動きだした。カーステの重低音が後ろから近づき、僕の横をさっきの車がブルンと追い越す。..と思ったら、車列はすぐ速度を落とし、停まった。また信号に引っかかったのだ。

そこで僕はまた彼を追い越し、信号が青になるとまた追い越され...というユルい競争を何度繰り返したか、やっと信号機が少ない地帯にさしかかり、高級車はここぞと猛スピードで走り去った。その時僕は家の近くまで来ており、つまりこの車は2kmほど、僕と一緒にのろのろ走って来たことになる。

実はこんなこと、特に珍しくはない。道幅は狭い、車は多い、信号機も多い、自転車も歩行者も多い。これが東京の基本的な道路環境だ。僕は車を運転しないからよく知らないが、高性能車の性能を充分楽しめるような環境は、そうそう多くないだろう。なのに、そんな日本にどうしてこんなに車好きがたくさんいて、これほど高度な自動車技術が育ったのか。考えれば不思議だ。

思うに、日本の自家用車発展の歴史は、車の「必要化」の過程でもあった。この「必要」とは実用的な意味だけではなく、虚構としての「必要」も含む。

たとえば、「車は第二のリビングルーム」と言われることがある。日本の劣悪な住宅事情が生んだ考え方とも言われるが、もしそうだとすれば、車内を出来る限り快適にしようという動機が生まれる。空間は広く、揺れは少なく、車内騒音は小さく、座席は疲れにくく。さらに高性能の音楽機器や空調も欲しい。これらが全部製造技術に反映された。

それから「車は非日常への入り口である」という思いもあるようだ。これは余暇を楽しむゆとりのない生活が生んだ考え方かも知れない。少し昔の車のCMでは、日本ではありえない果てしない平原のまっすぐな道とか、断崖絶壁の上など神秘的な環境を走らせているものが多かったように思う。そして、性能やデザインの面でも、そうした非日常を演出する面があったのではないか。

現代の消費生活は実用だけでは成り立たない。逆に、そんなフィクションを進んで楽しめる人が消費生活の勝者となり、たとえば渋滞の大通りでアイドリングして、高級車の性能とガソリンを浪費させられていても、まるでリビングのソファにもたれかかっているように、大音量のステレオをバックに鼻歌を歌うこともできるわけだ。

現代の経済を動かしていくには、必要なものだけつくっていては不可能で、多かれ少なかれこうしたフィクションが必要になるわけだが、日本人は特に、フィクションを楽しむ資質が高いかも知れない...と、日本の漫画やアニメ文化の隆盛を見れば思えなくもない。

そしてこの不景気。日本経済を支えてきた自動車産業も大不振に陥っている。僕らは新しいフィクションで、この難局を乗り切ることができるのか。とりあえず「エコ」をキーワードにさまざまな製品が生まれつつあるが、みんなが幸せになるにはまだまだ足りない。

今、日本人の虚構力が試されている。なんちて。

(中文版はこちら
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by uedadaj | 2009-09-11 14:46 | 散歩


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