缶 と 罐

ずっと前、広告会社に入り、まだ駆け出しの頃。
ある日上司に、製作中のカタログに使う「写植原稿」の校正を言いつかった。



今や知らない人も多いと思うが、DTPが普及する前は、印刷物の版下(写真製版用の原稿)づくりには「写植」と言うものが不可欠だった。文字原稿を専門業者に渡して、写真の印画紙のようなものに焼き付けてもらい、それを、デザイン指示を書き込んだケント紙の台紙にレイアウトするのである。

写植屋さんは、タイポグラフィに特化した職人と言える。ひらがな、カタカナ、漢字、時に123やabcまで節操なく出現する不規則で不定形な日本語を、実にうまい具合に間隔を調整して、スムーズで美しい文字列に仕上げてくれるのである。「腕のいい写植屋さんにかかると、下手なコピーもうまく見える(笑)」とさえ言われていた。DTP導入当初は、プリントアウトされる文字列がいやに無神経に見え、密かに悪口を言っていた覚えがある。

閒話休題。その写植屋さんから上がってきた、カタログの価格表示の文字組み(スペックという)を校正していたら、妙な「間違い」が目についた。

250ml罐入

ん?
「罐」、つまりは「缶」という字の旧字体。10か20ほどある同様の表記全部がそうなっている。…妙な間違いをするね。大体こんな字、今使ってないじゃん、などと思いながら、とりあえずその「罐」と言う字をマルで囲み、「缶」という修正指示を付記して、写植屋さんに戻した。

翌日、修正された原稿をチェックしてみると、他の誤字は直っているが、「罐」だけが直っていない。

手ぇ抜きやがったな、と一瞬ムッとしたが、ふと思い当たった。昔漢和辞典を読んだ時、「缶」という字に二種類あったっけ。一つは元々「缶」という形をしていた字で、古代の土器の一種を指すそうだ。「フ」「フウ」と発音する。現在の缶コーヒーの「カン」は本来「罐」と書き、「缶」は略字由来だとか。そして中国などでは今も「罐」という字が生きている。その頃僕は中国語は習っていないが、大学卒業間際に中国旅行をしたことがあったせいか、そのことを知っていた。

もしかすると…僕は想像してみた。この写植屋さんでは、中国人留学生がバイトをしており、僕らの原稿を担当したのでは? 「缶」と言う字を、正式でない略字か直し間違いだと思って、わざわざ「修正」してくれたのではないだろうか。そう言えば、ウチの会社に届け物をする人の中に、ちょっとぎこちない日本語を話す人もいたような。もしそうだとすれば、そのバイトの人は日本語の知識が足りないとは言え、むしろ、とても真面目に作業に取り組んでくれたんじゃないか。そう思うと、駆け出しの僕はその人物にかすかな親しみさえ覚えた。(その前に、彼の親方は何をやっていたんだ?という問題はあるがXD)

赤を入れた原稿をデザイナーが目にして、ちゃんと修正されなかったことに腹を立て、写植屋に文句言っとけよ、と言った。だが僕は、何となく頭ごなしに苦情を言うのが憚られ、多分こういう事情だと思うんですけど、と説明してみた。そのデザイナーは、「ふうん」…ぐらいの反応をしたかどうか。ともかく何の興味も示さなかった。まあ、その写植で作業をする側にすれば、いらぬ説明ではある。

以上、顔も名前も知らない、実在するかどうかさえ定かではない、ある中国人についての思い出だ。
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by uedadaj | 2006-03-08 23:50 | | Comments(0)


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